現代美術の空気が、少し変わってきたように思う。
2015年、東京都現代美術館『他人の時間』展で展示されていたミヤギフトシの作品を見て、これは文学だと私は直感した。その映像作品には、こんなような台詞があった。沖縄、フェンスの向こうにいる米兵が、作家に向かって何かを言う。作家は思う。「(彼は)自分にはわからない言葉で とても美しいことを言った」。美しさの理由なんて、問題ではなかった。
ミヤギフトシは森美術館で開催中の『六本木クロッシング2016展』にも参加していて、計20組の出展作家のなかには、彼と同じような感覚にさせる作家が何人もいた。ミヤギフトシはジェンダーと国境をめぐり、志村信裕は小さな島の人々の暮らしをかつて支えていた牛を追い、毛利悠子は物言わぬ物体同士を何らかの糸でつなぎ、小林エリカは放射能の発見という文明的達成と現代における禍根を背負っていた。
どれにも物語がある。けれども作家は饒舌ではなく、言葉はぽろぽろとこぼれるばかりだ。だから例えば、なぜ美しいかなんて説明してくれない。こちらは理由も意味もわからない。だけど第一、何かを本当に「わかる」なんて、可能なんだろうか。日々の暮らしを見たって、説明できないことのほうが多いじゃないか。だったら理由も意味もわからなくていい。「わかる」ことを保留にして、むしろ「わからない」ことを目印にしよう。見ている人は、作家のナイーブで、けれども強くて純粋な思いがこぼれていく、その隙間を、想像力を使って、埋めるように漂いながら、何かを感じればいい。
だからこれは、文学というよりは、ほとんど詩のようなものだ。もしかしたらきっと、私たちには、詩が足りない。アートは知性から感性に還ろうとしているのだろうか。そういえば、こんな言葉があった。
人間にものを言わせた最初の動機が情熱であったとすれば、(中略)はじめ人は詩で語り、ずっとのちになってようやく分別を働かせるようになったのである。
ジャン=ジャック・ルソー「言語起源論」(『ルソー全集 第十一巻』[白水社]所収/竹内成明訳)
六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声
会期:2016年3月26日(土)-7月10日(日)
会場:森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
公式サイト:六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声