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Column

2016.06.01

詩のようなアート

文/岡澤 浩太郎

現代美術の空気が、少し変わってきたように思う。

2015年、東京都現代美術館『他人の時間』展で展示されていたミヤギフトシの作品を見て、これは文学だと私は直感した。その映像作品には、こんなような台詞があった。沖縄、フェンスの向こうにいる米兵が、作家に向かって何かを言う。作家は思う。「(彼は)自分にはわからない言葉で とても美しいことを言った」。美しさの理由なんて、問題ではなかった。

ミヤギフトシ「The Ocean View Resort」(2013年)シングルチャンネルビデオ(カラー、サウンド)、19分25秒

ミヤギフトシは森美術館で開催中の『六本木クロッシング2016展』にも参加していて、計20組の出展作家のなかには、彼と同じような感覚にさせる作家が何人もいた。ミヤギフトシはジェンダーと国境をめぐり、志村信裕は小さな島の人々の暮らしをかつて支えていた牛を追い、毛利悠子は物言わぬ物体同士を何らかの糸でつなぎ、小林エリカは放射能の発見という文明的達成と現代における禍根を背負っていた。

ミヤギフトシ「花の名前」(2015年)シングルチャンネル・ビデオ、カラー、サウンド、20分59秒
志村信裕「見島牛」(2015年)シングルチャンネル・ビデオ(8ミリ白黒フィルムをビデオに変換)、20分、Courtesy: Yuka Tsuruno Gallery, Tokyo
毛利悠子「From A」(2015~2016年)看板、パネル、スプーン、モーター、フライパン、ベル、鏡、方位磁石、トライアングル、ボビン、カウンター、木材、扇風機、鉄道模型、楽譜クリップ、ケーブル、ワイヤー、毛ばたき、電球、リボン、電子基板など、500 × 300 × 80 cm、展示風景:「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、東京、2016年)、撮影:永禮 賢、写真提供:森美術館
小林エリカ「彼女のポートレート」(2015年)鉛筆、コットンペーパー、21.6 × 21.6 cm

どれにも物語がある。けれども作家は饒舌ではなく、言葉はぽろぽろとこぼれるばかりだ。だから例えば、なぜ美しいかなんて説明してくれない。こちらは理由も意味もわからない。だけど第一、何かを本当に「わかる」なんて、可能なんだろうか。日々の暮らしを見たって、説明できないことのほうが多いじゃないか。だったら理由も意味もわからなくていい。「わかる」ことを保留にして、むしろ「わからない」ことを目印にしよう。見ている人は、作家のナイーブで、けれども強くて純粋な思いがこぼれていく、その隙間を、想像力を使って、埋めるように漂いながら、何かを感じればいい。

だからこれは、文学というよりは、ほとんど詩のようなものだ。もしかしたらきっと、私たちには、詩が足りない。アートは知性から感性に還ろうとしているのだろうか。そういえば、こんな言葉があった。

人間にものを言わせた最初の動機が情熱であったとすれば、(中略)はじめ人は詩で語り、ずっとのちになってようやく分別を働かせるようになったのである。


ジャン=ジャック・ルソー「言語起源論」(『ルソー全集 第十一巻』[白水社]所収/竹内成明訳)

 
 
 
六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声

会期:2016年3月26日(土)-7月10日(日)
会場:森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
公式サイト:六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声

岡澤 浩太郎

編集者

1977年生まれ、編集者。『スタジオ・ボイス』編集部などを経て2009年よりフリー。2018年、一人出版社「八燿堂」開始。19年、東京から長野に移住。興味は、藝術の起源、森との生活。文化的・環境的・地域経済的に持続可能な出版活動を目指している。
https://www.mahora-book.com/