映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の投げかける問いは、とてもむずかしい。主人公は地位と名誉と容姿に恵まれ、巨額の金が飛び交う現代美術のグラマラスな世界で勇躍する男。だがある日、スリに遭った腹いせに、犯人に脅迫状を送り付けることを思い立つ。一方で、ある作品を据えた自館の展覧会の、宣伝のために制作した動画がネットで炎上する。その作品“ザ・スクエア”とは、4メートル四方に四角く地面を区切っただけのもので、脇にはただ、こう記されている。
「“ザ・スクエア”は〈信頼と思いやりの聖域〉です。この中では誰もが平等の権利と義務を持っています」
文章は、だからこの中にいる人がもし助けを呼べば、あなたはその人を助けなくてはならない、と続くのだが、例えばこれは電車の優先席と同じで、扶助の精神をうながすきっかけになるのだろうけど、優先席じゃなければ席を譲らなくても構わない、というように自分の保身を強めることや、そこに座る人は「弱者」であると、間接的に名指すことにも転じるかもしれない。オリンピックとパラリンピックをわざわざ分けるのも同じことだ。本当なら、そんなきっかけは、ないほうがいい。
映画は困難を突き付ける。ある場面では、ビジネス街やショッピングモールで、誰も物乞いに目を向けない。別の場面では、女性が襲われそうになっても、誰も助けようとしない。どうして助けないのだと、助けなかった人たちに声を荒げることは簡単だが、それは同時に、あなたなら助けるのかと問われることでもある。ここに何があればいいのか。正義とか、善意とか、寛容さとか、奉仕とか、信頼とか、いろいろな言葉が浮かぶけれども、どれもすわりがわるい。
私ならこう思う。社会にある不和は、人の抱える「怖れ」に原因がある。失いたくない、傷つきたくない、損をしたくない、といった怖れだ。それが、報復したい、否定したい、与えたくない、見たくない、といった欲に転じる。その結果、大量の富や武器とか、自分を支える理屈に、しがみついて手放せなくなる。何かを怖れること自体は、たぶんわるくない。問題は、どうして怖れるのか、原因を見失っていることにある。それには本当は何を欲しているのか、自分の感情を見つめることだ。
主人公はなぜ物乞いの前を素通りしたのか。関わりたくなかったからだとする。なぜか。自分の生活を脅かされたくなかった。どうしてか。おだやかに暮らしたい。もっと言えば、ひどく疲れていて、休息したい。だとすれば、休みたいという自分の目的を満たせれば、関わりたくないという怖れは生じなくなる。なぜ物乞いは金を乞うのか。食料を買うためだとする。なぜか。子どもに与えるため。どうしてか。子どもが幼くてまだ自立できない。もっと言えば、親としての責任を果たしたい。だとすれば、自分の責任感を満たせれば、金にこだわる必要もなく、金がないという怖れも手放すことができる。
詭弁だろうか。楽観的すぎるだろうか。映画はあえて、はっきりした答えを導かないが、少なくとも本編の主人公は、自分の抱える怖れのひとつを、手放すことができたのだろう。確かにそれは不完全で、物足りなくて、そしてひょっとしたら、人から嘲笑されるような結末だったかもしれない。けれど、すべてを解決することはできなくとも、無限の底なし沼からは這い出すことができたのだと、私は思いたい。
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』映画情報
監督・脚本:リューベン・オストルンド(『フレンチアルプスで起きたこと』)
製作:エリック・ヘルメンドルフ(『フレンチアルプスで起きたこと』)、フィリップ・ボベール(『散歩する惑星』)
撮影:フレドリック・ウェンツェル(『フレンチアルプスで起きたこと』)
出演:クレス・バング、エリザベス・モス、ドミニク・ウェスト、テリー・ノタリー他
2017年/スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク合作/英語、スウェーデン語/151分/DCP/カラー/ビスタ/5.1ch/原題:THE SQUARE/日本語字幕:石田泰子
後援:スウェーデン大使館、デンマーク大使館、在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本 ©2017 Plattform Produktion AB / Société Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS
公式ホームページ:http://www.transformer.co.jp/m/thesquare/
4月28日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamura ル・シネマ、立川シネマシティほか全国順次ロードショー
※本文中参考文献:マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』(日本経済新聞出版社)