私たちが日常で何気なくつかっている「美」ということば。
けれども、そもそも「美」とは何なのでしょうか?
自分が美を感じるものに触れたときに生まれる感情や行動は、人間以外の生物にもあるのかもしれません。
そんな問いのヒントにつながる新連載「美とサイエンス‐美生物の視点から‐」がスタートします。
この連載では資生堂みらい開発研究所と慶応義塾大学名誉教授の冨田勝氏(前慶応義塾大学先端生命科学研究所所長)との共創プロジェクトで生まれた、論文ベースで紐解いた美とその独自の解釈をテキストとポッドキャストでお届けいたします。
プロジェクトのメンバーである資生堂の研究員6名が「美しいってなに? 美とは?」という根源的な問いから出発し、さまざまな美に関わる論文から既存の考え方やルールにとらわれない革新的な考察で、“美”を探索。“美”をめぐる壮大な航海を経て、彼らがたどり着いた、“美生物”ということば。生物と美の関係性、生物それぞれがもつであろう美の尺度など、さまざまな角度で考察していきます。
テキストでは研究員の考察を、ポッドキャストではゲストをお招きし、テーマについて新たな視点で掘り下げていきます。
第1回は「生物にとっての美」について。資生堂みらい開発研究所で腸内細菌と心理の領域を専門とする研究員、鴛渕孝太です。彼は、現在山形県鶴岡市の慶應先端研で研究を行っています。
ポッドキャストでは哲学者の永井玲衣さんをお迎えし、“美”をテーマに哲学対話を行いました。
「美」の起源について調べてみた
美とは何だろう。何を意味するのだろう。
辞書を引くと、非常に多くの意味を持っていることが分かる。愛らしい、かわいい、いとしい、快く好ましい、立派、いさぎよい等々(1)。冨田氏との共創プロジェクトメンバー間でも美について調べ始めた当初、どんな美があるか例を出し合った結果、大自然から人工的なものまで、静的なものから動的なものまで、歴史的なものから今この瞬間に至るまで、日常から非日常まで、普遍的なものから特殊的なものまで、非常に様々な美が存在することに気づかされた。TEDでの「美の進化論的起源」が話題となったアメリカの哲学者Denis Dutton氏は、美は一言で言い現わすことはできないとして、「美についての12のクラスター」説を唱えている (2)。
語源については、漢字の成り立ちの歴史を紐解いてみた。美という漢字は、羊と大で構成される。羊は宗教的儀式において献物としても扱われており、犠牲という意味があったそうだ (3)。つまり、美とは「大いなる犠牲」という意味になり、命に相当する価値があるものであり、倫理的には「最も崇高な行い」=「美」であった。別の語源の説には立命館大学名誉教授である文学博士白川静香氏が唱えた白川説というものもあり、羊は神へお供えするものであり、完璧でなければいけないということで、成熟した羊の全体を上から見た形を美と表したとのことである (3)(image : Fig. 1)。いずれにしろ、美は生と同じ価値があるものと意味づけられたと考えられる。生きる上で、生き物は食べる、コミュニケーションする、暮らす必要がある。だからこそ、美は多岐に渡るカテゴリーで使われているのだろう。つまり、美は単純な好き嫌いを超越し、非常に生に密着したもの、生そのものだと想像できる。
見た目の美はどういう意味?
さまざまな美しいとされる生き物がある。美しいとされるのは少なくとも他と違うからであり、その違いが非常に綺麗に、そして魅力的に映るからである。それはどんな意味を持つのであろうか。
例えば、クジャク(Pavo cristatus)のオスは非常に綺麗で鮮やかな羽を有する生き物として知られる(Fig. 2)。これが何故なのかについては長い間、多くの研究がなされてきている。最初は、模様の目玉の数が多いほど交尾するメスの数が有意に多い、つまりメスにモテるからと結論がなされていた (4)。しかしその後の研究で、華美な羽を持つクジャクの子孫はより成長し、生存率が向上することが分かってきた (5)。具体的には、父親の羽の目玉サイズが大きいほど、羽化後84日目の子孫のサイズ(体重)が有意に大きくなったという。また、その後の生存率を観てみると、体重が重い方が有意に高い結果だった。つまり、クジャクの羽の華美は、そのゴージャスさの違いだけでなく、メスから選ばれる為だけでなく、子孫の存続に影響している可能性がある。つまり、その見た目(の美しさ)は、種の存続と非常に関連したものである可能性が高いと分かる。地球上には美しいとされる生き物がたくさんいるが、その理由は分かっていないことが多く、今後の研究の進展が楽しみだ。
一方で、美しいとか美しくないとかの評価ではなく、単に違いにどんな意味があるのか調べた例がある。小さい頃ダンゴムシをつついて丸くさせた覚えがある方も多いと思うが、コクヌストモドキ(Tribolium castaneum)(Fig. 3)は同じように驚くと死んだふりをすることで知られる。しかし、クヌストモドキの中にも死んだふりをしない個体も存在する。これが何故なのか調べた研究がある (6)。クヌストモドキを捕まえて、死んだふりをする個体と死んだふりをしない個体に分け継代する(子孫を残させる)。その後、何に違いが出るのか調べたところ、交尾の回数に違いがあった。つまり、クヌストモドキは交尾の確率を下げてでも生を選択するか、死ぬ覚悟の上で交尾をするのか、そんな究極の2択から選んでいるということである。これはその生き物、その個体の戦略であり、これは主に環境変化によって勝敗が決まる。よってどんな環境変化があるか分からない現在では、この2つの違いがあるということ、つまり多様性が重要であり、種の繁栄に大きく影響しているのだ。
美を支えるもの
”多様性こそ美”という結論に至ったわけであるが、違いは争いを生むきっかけになるので、それを支えるものがなければ、美は存続できない。ここで面白い研究を紹介したい。苦しんでいる同種の生き物を見せると、恐怖が誘発されるかをゼブラフィッシュ(Fig. 4)で調べた研究がある (7)。結果は、警報物質を入れた方は反略奪行動を取ったが、観察者への伝播は、慣れ親しんだ者同士で顕著であった。2023年SCIENCEに出た論文によると、これはオキシトシンが基本的な共感制御因子として働くこと、そして、これは脊椎動物全体に渡り進化の上で保存されているということが分かった (8)。そして驚くべきことに、このような他者からの伝播は植物でも観られることが明らかになっている。植物は近隣の植物が損傷を受けた際に放出される揮発性有機化合物を感知し、さまざまな防御を取るという(9)(Fig. 5)。つまりヒトだけではなく、多くの生き物が他者と共感し合って生きているということである。
ヒトでは当然、共感は大事だと分かっている。最近だと、暗黙知と形式知のダイナミックな連動を理論化したSECIモデルを提唱された野中郁次郎氏が、「人間には「感性を通じた共感」を安心と捉える本質があり、これが社会を作る」と本の中で書かれている (10)。また、マイクロソフトCEO兼会長のSatya Nadella氏は、「AIが普及した社会で一番希少になるのが、他者に共感する力を持つ人間」と発言されている (11)。
生物からみえる美の役割
ここまで美生物について、広く生物全般に焦点を当てて考えてきたが、“美”とは何かと聞かれると、生き物を優しく包み込む『ネット』であると答えるだろう。縦糸のイメージとしては、さまざまな形質、つまり多様性であり、これにより環境変化に対し、複数の手を持つことにより生存確率が上がり、種を保存、継続していくことができる。そして横糸のイメージは、共感である。縦糸だけだと強度が心配だが、共感である横糸を通すことでお互いに支え合いながら強度が格段に上がり、安定感を生み出すようになる。
棋士の羽生善治氏は自らの著書の中で、「AIに違和感を覚える人が多いが、それはAIが将棋に置いて恐怖心や美意識がないから」と語り、美意識については、「人間の持つ『安心』や『安定』のような感覚に似ている」、「人間は一貫性や継続性のあるものを『美しい』と感じることから時間の概念が関係している」と述べている (12)。ここでの一貫性や継続性というものが、私には美しい生物を考える上で、多様性や進化に感じられる。さらに、そこに共感が加わるからこそ、安心や安定が生まれるのではないだろうか。そしてその先に違いとなって美しさが生まれてくるようなそんな気がする。
小学校の頃、陸上競技で一等賞になれず悔しんでいると、母親から「ドベがいるから一等賞もいる。一等賞が輝くのはドベがいるから。」と言って励まそうとしてくれた。美しいともてはやされる生物の裏にはそれを輝かせるため生物が沢山いる。そして、ある時は陸上競技であり、ある時は水泳や書道といった具合に戦うフィールドが変わり、またある時はスーパーマンみたいな転校生がやってくるかもしれない。その都度一喜一憂するのもいいが、廃れることなく、自分の好きなフィールドで思いっきり好きなことをした方が生き物らしいのではないだろうか。そうしてたまに仲間と共感しながら生きることが、それぞれ生命あるものの美しい人生につながっていくのではないか。
永井 玲衣
考えること、対話することについて探求する哲学研究者。学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)などがある。
https://twitter.com/nagainagainagai
鴛渕 孝太
2010年資生堂入社
ファンデーション、ヘアケア、スキンケアの中味開発に従事。
グリーンコスメPJ、メンズコスメPJ、サステナブルPJを推進。
2022年より慶應義塾大学先端生命科学研究所に入り、山形県鶴岡市にて腸内細菌と心理、心と美の研究を行う。
(1) 新村出. (2018). 広辞苑 第七版. 岩波新書, 東京.
(2) Dutton, D. (2006). A naturalist definition of art. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 64(3), 367-377.
(3) 桑原武夫,& 加藤周一.(1969).岩波講座哲学14:芸術.岩波書店.
(4) Petrie, M., Tim, H., & Carolyn, S. (1991). Peahens prefer peacocks with elaborate trains. Animal Behaviour, 41(2), 323-331.
(5) Petrie, M. (1994). Improved growth and survival of offspring of peacocks with more elaborate trains. Nature, 371(6498), 598-599.
(6)Nakayama, S., & Miyatake, T. (2010). Genetic trade-off between abilities to avoid attack and to mate: a cost of tonic immobility. Biology Letters, 6(1), 18-20.(7) Silva, P. F., de Leaniz, C. G., & Luchiari, A. C. (2019). Fear contagion in zebrafish: a behaviour affected by familiarity. bioRxiv, 521187.
(8) Akinrinade, I., Kareklas, K., Teles, M. C., Reis, T. K., Gliksberg, M., Petri, G., ... & Oliveira, R. F. (2023). Evolutionarily conserved role of oxytocin in social fear contagion in zebrafish. Science, 379(6638), 1232-1237.
(9) Aratani, Y., Uemura, T., Hagihara, T., Matsui, K., & Toyota, M. (2023). Green leaf volatile sensory calcium transduction in Arabidopsis. Nature Communications, 14(1), 6236.
(10) 野中郁次郎. (2021). 共感が未来をつくる: ソーシャルイノベーションの実践知. (No Title). 千倉書房
(11) 日本経済新聞. (2017, January 30). AIと競い、共に働く 「選別」の脅威を越えて. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO12280790Z20C17A1M10700/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO12280790Z20C17A1M10700/
(12) 羽生善治. (2017). 人工知能の核心 (Vol. 83). NHK 出版.