遠い昔のことは、本当のところはわからない。確かな証拠が残っていないからだ。どんな景色を見ていたのか。何を食べ、何を着て、何を美しいと感じていたのか。わからない。わからないけれども、想像することはできる。それは、想像するのは自由だから、という、さかしらぶった理由ではなく、失われたものに近づきたいという思いが、創意や創作という、人の営みになるからだ。芸術の起源とは、有史の時系列をさかのぼりながら発見することも大切だけれど、このように人の心に美が灯る、内的な情緒も尊いと、私は思う。
前田征紀が主宰するコズミックワンダーは、パリコレクションに参加していた活動初期を経て、オーガニックコットンや草木染め、葛布や藤布などの自然布、国産の古い大麻布や天然のなめし革などを素材とした作品を発表していく。現代という時代や、商品を量販するという重さを意識しながらも、紙衣や貫頭衣のような服を世に問う確信は固い。その延長にあるのが、工藝デザイナーの石井すみ子とのユニットによる工藝ぱんくす舎であり、《水会》と称されたパフォーマンスだ。
《水会》の記録映像を初めて見た時、このパフォーマンスは芸術の起源にあっただろうものを取り戻す試みなのだと感じた。舞台は京都府京丹波町の奥深い杉の森。茶会を模したような作法で、主人が客人をもてなしていく。主人は大麻の繊維と森の草木を混ぜた和紙でできた衣に身を包んでいる。茶の代わりにふるまわれるのは京都・出雲大神宮の湧水。主人が祝詞を上げる仕草をする。敷物の上に水碗や菓子皿などが並び、座に木漏れ日が射す。何かの宗教のような、儀式めいた空気。
二度目は島根県益田市の海岸を舞台に《お水え》として行われた。場所はいずれも縄文時代に営みがなされていた場所がインスピレーションの源になっているという。まっすぐに注ぐ太陽。波は櫓のように組まれた座のすぐ近くまで力強く押し寄せる。ここでは異なる三種の紙衣が山・海・川に見立てられ、藁で編まれた龍を手に持って舞のような行為が行われた。島根=石見の和紙や土、隠岐の木と黒曜石でつくられた道具たちが場をしつらえる。そして縄文の石斧、楮の和紙、紙の盆、香炉、柄杓、白曜石、木偶、雨乞いに使う壺、神代文字のひとつと言われるヲシテ文字で詞を記した和紙――。自然とつながった人の暮らしの復権。太古の精霊たちの召喚。それを現代において行うこと。
資生堂ギャラリーで開催されている『かみ』展では《水会》《お水え》を再構成した。かつて海だったという銀座のギャラリー空間に、いかだのような形をした舟を浮かべて、《舟水会》の場とする。縄文以前より生息していたという植物・ハマゴウが、紙の衣に漉かれ、菓子に練りこまれ、菓子皿として編まれた。周囲にはさまざまな、遺物のようなものが丁寧にしつらえられている。サウンドアーティスト・鈴木昭男の、弥生時代のものだという復元した土笛を用いた演奏が、コンクリートに閉じられた暗い空気を吹くように流していく。
これらすべてには、原初的な感覚へと遡行していく軌跡が、まざまざと記されてある。けれどもそれは、あくまでも想像にすぎない。現代人は想像することしかできないからだ。しかし、むしろだからこそ、それは創作となり得る。科学や知性がおよばない場所。論理や合理性とは別に成立し得る秩序。それが芸術である。それが美である。ここには芸術の起源が、確かにある。あるだろうと思える。過去に渡された橋として、現代を抱擁する器として、未来へつながる扉として、自然と一体となった営みから、美が生まれていく様を、私は見ている。
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
――宮沢賢治「農民芸術概論綱要」(『宮沢賢治全集10』所収、ちくま文庫)