すぐれたダンサーは、たった一本の指を動かすだけで、その場の空気を一変させるという。想像してほしい。舞台に立つ、その人に、照明の光と人々の視線が集まっている。彼は動かない。静かだ。緊張が高まる。ややあって、指を、一本だけ、ほんの少し、ゆっくりと持ち上げる……。そんな話を、東京都美術館で行われている企画展『杉戸洋 とんぼ と のりしろ』を見て、思い出した。
例えば「とんぼ」と名づけられたギャラリーBという部屋に展示された一枚の絵。年季の入った漆喰のような質感の白い地に、うっすらとした黒い線でかすかにドローイングが施されている。小屋の形のようだ。それだけでもなぜか惹きつけられてしまうのに、キャンバスの右端、2センチくらいの幅の縦の空間に、ピンク色のスタイロフォームがはめ込まれていることに目が気づくと、途端に絵の表情が変貌してしまう。色彩と、線と、形と、濃淡と、強弱と、位置の、リズム。たったひとつの工夫が、波紋のように絵の全体に広がって、絵をなしているいくつもの要素を、繊細に、ざわざわと、激しく、動かしていく。そして見渡すと、ひとつの絵が、隣り合った作品や、会場全体の空気とつながっていることが感じられる。そのことに気づいてしまうと、もう、それ以外の存在の仕方が考えられなくなる。完成してしまっているのだ。そして、この展示の作品には人の姿が現れないのに、ひとつの絵が、会場のすべてが、まるで生きているような気配がしてくる。
なぜピンクなのか。なぜ縦に、2センチくらいだけなのか。それはこの、国内外で長いキャリアを持つ稀有な作家にしかわからない、言ってみれば魔法のようなものだ。彼にだけ与えられた天才だ。作品を見る人は、その秘密の残滓のようなものしか、うかがい知ることができない。けれど彼が施した創作に、緊張したり拒否されたりするのではなく、なじむようにして、その場にいることを許されている。ある秩序のなかにいることが実感できるのだ。逆に言えば、彼の創作は、からくりのわからない秩序へと、その場を調律している。彼にとって芸術とは、整えることなのかもしれない。
わたしたちが調和、あるいは総体としての絵画を求めるのは、決して単にフォルムや色彩の問題を云々しているのではなく、要は精神的な全体性の問題にかかわる。
――パウル・クレー『造形思考』(ちくま学芸文庫)
本展に際して杉戸は、「いつか古くて落ち着いた喫茶店のための良い絵を一枚描くことが夢」だと語ったという。なんてすばらしい夢だろう。長い時間の流れる空間に、そっと添えられた一枚の絵画。その美しさは、日々の営みとともに呼吸し、眠り、会話していくのだろう。そうして日々に美しさをおよぼしていくのだろう。やがて、ともに生きることが、みずみずしくなっていく。美とはそのための、本当にささやかな、扉なのだろう。