星は、青く深い夜空を飾り、風に吹かれて宙を降り、木々の上を漂って、波の揺らめく海に落ちる。そんな、ただ美しい光景を前に、哲学者ならその意味を思い、科学者なら理由を探すが、音楽家は星図を音符に象り、詩人はひと言「美しい」と零すだろう。美術家・ミヤギフトシの映像作品《How Many Nights》には、音楽と詩が映されている。
彼が5年前から継続しているシリーズ作〈American Boyfriend〉のひとつを、私は以前見て、これは美術ではなく文学だと直感した、と書いたことがある(その後このシリーズは『文藝』誌で二度、中篇小説の形で本当に発表された)。冒頭の映像作品と同じ名前がつけられた、銀座・ギャラリー小柳での今回の展示も、その連作のひとつだという。映像では20世紀初頭から大戦後にかけて生きた5人の女性にまつわる話を、アメリカ、東京、再びアメリカ、太平洋上、熊野、と舞台を移しながら描いている。歴史という大きな軸を縦糸に、それぞれのナショナリティとアイデンティティが横糸にわたされ、プライベートなテリトリーから大きな物語を仰ぎ見る作品だと言えるだろうか。
だからこれは女性たちの/による/ための/だけの物語なのかというと、しかし作品を見るうちに、そうとも限らないように思えてくる。なぜだろうか。端的に言うなら、美しいからだ。月光に照らされたのか、ピアノの鍵盤を抑える指の、淡い白さが。創作という、人間だけに許された行為を確かめるように、ひとつずつ文字を綴っていく、横顔のシルエットが。そして風の音、波の響き、ラヴェルの旋律、歌うように流れるいくつもの声と言葉が。やがて鑑賞者は気づくはずだ。美しさから、人称が消えていくことに。この美しさは、彼女たちひとりひとりだけのものでは、なくなっていくのだ。作中ではこんな言葉が、そっと語られる。
そう、いや違う。そうかもしれない。
例えば夜空に灯る星を見て、遠い神話の一節を思い浮かべる。ラジオから流れる音楽を聴きながら、どこかで同じように耳を澄ましている誰かのことを想像する。その美しさは、5人の女性の誰かのなかに確かに灯ったものだ。けれども、遠い昔、あるいは未来、ほかの誰かも感じたかもしれない。言い換えるなら、同じ風景を見たであろう誰かや、どこかで同じ思いをしたであろう誰かと、美しいという印を通じて、つながっていくのだ。私が見た美しさは、あなたのそれと、多分、同じなのだろう。むしろ、そうであってほしい。そうであれば、つながれるから。そうであれば、越えられるから。その美しさが、私を越えて広がっていけるから。だから、「そう」なのか、「違う」のかの、どちらかではなく、どれであってもいいように、ナイーブだとしても「そうかもしれない」と言ってくれるほうが、救われるのだ。
こうして5人の女性をめぐる物語は、ひとつひとつのエピソードがまじりあい、溶け合って、おそらくは女性という区別も越えて、遍く詩となるのだろう。そしてこのことを可能にするのが、美しさという思いであることを、この美術家は知っていたのだし、私たちはこのような形で芸術が存在できることを、祝福してよいだろう。
■ ミヤギフトシ「How Many Nights」展
会期:2017年7月7日~8月30日
※日月祝祭日、8月11日~16日は休廊
時間:11:00~19:00
会場:ギャラリー小柳(東京都中央区銀座1-7-5 小柳ビル9階)
http://www.gallerykoyanagi.com/