紀元前6000年代の新石器時代から続いた古代ギリシャの遺物について、以前書いたことがある(「大小の遺品」)。今日はさらにさかのぼって、紀元前2万年の話をしよう。後期旧石器時代に描かれた壁画のうち、フランス南西部で発見された、もっとも保存状態がよく、美しく描かれたと言われる、ラスコーの洞窟壁画だ。
国立科学博物館で行われている特別展『世界遺産 ラスコー展 ~クロマニョン人が残した洞窟壁画~』でもっとも印象的だったのは、実物大に再現された洞窟壁画だった。一見して、予想以上の大きさに驚かされた。復元された5点のうち、大きいものは幅7メートルにもおよぶという。いずれも、石器で壁面を彫りながら描く「線刻」と、赤鉄鉱やマンガン鉱の顔料で着色する「彩色」という、手先の細かい技法によって描かれている。多少デフォルメされてはいるものの、基本的に写実的に描かれているのは、旧石器時代芸術の全般的な特徴だという。
ところで、当時の人々は、洞窟の内部には住んでいない。日の光の届く洞窟の入口付近がせいぜいの住処だった。それがなぜ、わざわざ暗い闇が広がる洞窟の奥深くまで進み、貴重なランプの灯りを手掛かりにしながら、膨大な時間と労力をかけてまで、ここまで緻密な絵を描いたのか。これには諸説ある。
美術史家・木村重信は『美術の始源』(新潮社)で、壁画の目的を「呪詛」であると説明している。壁画に描かれたのは、ウマ、ウシ、シカなど、彼らが好んで狩猟の対象とした動物たちがほとんどだ。特に本展で復元された《褐色のバイソン》や《井戸の場面》では動物に突き刺した矢や槍が、《黒い牡ウシ》では人がつくった罠と思われるカラフルな四角い図形が、描かれている。つまり、彼らはこう考えた。絵に描いた動物を殺せば、たとえ目の前にいる動物ではなくとも、いつかどこかで現実にいる動物を殺すことができる、と(実際にこの時代のほかの壁画には、描かれた動物に向かって、槍や矢を投げつけた痕跡があるものも発見されているという)。獲物を得たいという思いが、呪詛となり、呪詛から発して、壁画が描かれた。彼らにとって、芸術とは、生活そのものだったのだ。
あらためて壁画を見てみる。暗がりに浮かび上がる動物たち。足場を組まないと届かない上のほうにも描かれている。豊かに膨らむ動物の腹部や、大地を蹴って疾走する脚の動き、最大限に質感を再現しようとした色使い。どれも丁寧ではある。だが正直に言えば、私はこの、もっとも古い芸術のひとつを、美しいとは思わなかった。むしろこれは、美しいという概念が生まれる前の芸術なのではないか。そしてただ一点のみ、ラスコー洞窟壁画を芸術たらしめているのは、ウマやバイソンに突き刺さった線、それに尽きる。線は周囲から白くはっきりと浮き上がるほど、力強く、深々と刻まれ、異様なまでの存在感を示している。緻密に描かれた動物たちは、この線のためのキャンバスに過ぎなかったのではないか。線には、それほどまでに、人間の生きようとする意思が、ありありと表れている。
われわれの藝術は終わらない。(中略)われわれの読み書き歌い踊り描き語る、この無限の営みは終わることができない。それ自体が、われわれの意味であり、人類が生き延びることそのものなのだから。
――佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)
本展は壁画の後、同時代の彫刻や道具の展示に移り、日本という名前がまだなかった頃の、この列島で発見された縄文土器で締めくくられる。時代は中石器時代~新石器時代へと下り、極端に誇張されたモチーフや、抽象的な図形などの占める割合が大きくなる。果たして美しいという概念は、いつ、どのように生まれたのか。探求はまた、別の機会に譲ろう。
COVER PHOTO 実物大で再現される壁画 《井戸の場面》 © SPL Lascaux international exhibition
国立科学博物館 特別展『世界遺産 ラスコー展 ~クロマニョン人が残した洞窟壁画~』
会期:~2月19日(日)
会場:国立科学博物館 〒110-8718 東京都台東区上野公園7-20
開館時間:午前9時~午後5時(金曜日は午後8時まで) ※入館は各閉館時刻の30分前まで
休館日:毎週月曜日 ※2月13日(月)は開館
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600
公式ウェブサイト:http://lascaux2016.jp/