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Column

2016.12.16

美しくなるのか、そうさせるのか

文/岡澤 浩太郎

詩とは、自分にではなく、相手に向かって書くものだと、聞いたことがある。なるほど、例えば愛とは、生まれながら自分のなかに眠っていて、誰かと出会ったことで、掘り起こされるものだとしたら、誰かへの思いを表そうとして生まれた言葉は、果たして自分が発したのか、それとも誰かによって発せられたのか。近づこうとして、ほつれていく。埋めようとして、ほどけていく。それでも接したいという思いで、人間の創作の歴史が重なっていったのは、まさにその対象=ミューズ(女神)がいたからだと、この映画は言う。

ホセ・ルイス・ゲリンの監督映画『ミューズ・アカデミー』はミューズを考察する、ある大学の講義のドキュメンタリーから始まる。詩や神話ではどのようにミューズが表されてきたか、そこから始まり、言葉、文学、音楽、そして情熱、欲望、男と女、主体と受動、自由と形式、と、議論は歴史と現在を結びつけながら、哲学的に、また果てしなく展開していく。けれども教授と学生たちとのやり取りは、答えにたどりつかず、無数の問いとなったまま残されていく。

映画の中盤、私たちは耳を澄ませることになる。ある地方に伝わる、牧歌的な歌声や、わからない言葉で謳われた、詩の響き。別の男がこんなことを言う、「空の上のほうで風の音がした」。聞こえるだろうか。人の声と、鳥の鳴き声の、もっと上のほうで、よぎる音が。そんなものが本当にあるのか、わからないものにこそ、意識を向けること。そうか、もしかしたら美とは、自ら露わにするのではなく、誰かが見つけて、初めて輝くものではないだろうか。そして詩も、神話も、言葉も、音楽も、芸術も、あらゆるものに眠る美を照らし出す、あらゆる人をミューズにする、方便でしかないのではないだろうか。だから映画は、やがてフィクションと物語の世界へとゆるやかに横すべりし、スクリーンに映る女たちに、美をまとわせていくのだ。

このとき彼は知っていたでしょうか、彼の音楽的な歩みが踏んで駆けめぐる花々も、森林も、星々も、海洋も、山岳も、彼自身に酔うてうっとりしているのだと。


――ジャン・ジュネ『薔薇の奇蹟』(堀口大學訳/新潮文庫)

それにしても……ホセ・ルイス・ゲリンの映画は、私は数本しか見たことはないが、例えばこの映画や『シルビアのいる街で』に映されたまなざしの強さには、惹きつけられる重力のようなものがある。繊細なトーンに覆われたなか、何かが始まり、何かがピークを迎え、何かが終わることを知らせる、合図のようなもの。この映画で何度まなざしが交わされたか、数えながら、誰が一番美しかったかを反芻するのも、この映画に許された見方かもしれない。

岡澤 浩太郎

編集者

1977年生まれ、編集者。『スタジオ・ボイス』編集部などを経て2009年よりフリー。2018年、一人出版社「八燿堂」開始。19年、東京から長野に移住。興味は、藝術の起源、森との生活。文化的・環境的・地域経済的に持続可能な出版活動を目指している。
https://www.mahora-book.com/