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Column

2020.10.19

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』が教えてくれること。

文/小川知子

 2016年に韓国で発売されるやいなや130万部を記録し、社会現象まで巻き起こした『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斉藤真理子訳)。18年には日本でも刊行され話題となった本作が映画化され日本でも公開中です。
 タイトルの「キム・ジヨン」という名は、韓国における1982年生まれに最も多い名前で、韓国に生きる女性たちが人生で当たり前に背負ってきたもの、女性たちの前に立ちはだかる社会の見えない壁をリアルに描き、韓国だけでなく多くの地域で共感を呼んでいます。ウェブ花椿で「恋する私の♡日常言語学」で男女のコミュニケーションについてお話くださっている、同じく1982年生まれのライター小川知子さんが本作について語ってくれました。

右/ジヨン(チョン・ユミ)、左/デヒョン(コン・ユ)

痛みや傷をなかったことにしないこと。

 チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだのは、一昨年の年末のことだ。女性の社会進出は進んでも、家父長制に基く「家事、育児は女性が行うもの」という価値観は世代を越えて、家族間やメディアなどを通じ未だに継承されている。また、女性として生まれたのなら、教育を受け、社会に出て、結婚し、やがて母になることは、模範的な人生設計とされているのも事実だ。求められる役割に懸命に応えるなかで、個人としてのアイデンティティや生きがいが失われていく。その生きづらさを追体験し、胸が押しつぶされそうになったのは嘘ではない。けれども同時に、彼女と同時代の82年に生まれた私が女性としてそれほど苦しい思いをしたことがあるだろうか、と自分の半生を振り返ってみると、水に流せば記憶から抹消できる程度の体験しかしていない気がするのだった。

 なぜなら、82年生まれの私はジェンダーに基づく固定的役割分担を押し付けない両親のもとですくすくと育ち、大企業に所属したこともないし、未婚で、出産、育児経験もない。今のところ生きがいである仕事においても、女性であることも含め持ち前の特性で、経済的、社会的弱者として扱う人や場所をかぎつければ、一目散に逃げ出してきた。横行する性差別に対して見えないフリをして、傷つけられないように、うまく回避して生きてきたのだ。そんなフリーランスの私に、男性が8割を占める部署で働く女友達はこう言った。「ジヨンよりも私のいる場所の方が、もっと地獄だよ」と。

 そんなことからキム・ジヨンに共感する資格なんてないなと思っていた私だが、映画『82年生まれ、キム・ジヨン』を観ていて気づかされたのが、私の中にも、生きてきた過去にも、身近なコミュニティにもキム・ジヨンがいたということだった。物語が進んでいくにつれ、ジヨンの孤独や葛藤が私の体験や感情と結びつき、堰を切ったように流れこんできた。男性ではなく女性であるだけで、選択の自由を奪われてきた母や祖母の怒りと悲しみから、自責の念を感じてしまうこと。子どもを生む可能性があることで、長期的なプロジェクトから外される絶望。キャリアを選べば母として不完全であることに悩み、専業主婦になれば夫の稼ぎで楽して生きていてズルいと陰口を叩かれる。私として生きてきたはずの人生で、いつの間にか私という個が崩れ落ちて輪郭をも失ってしまう感覚。

 原作では精神科医から見た一人の患者のカルテという体裁で淡々と他人事として書かれていたジヨンの物語が、デヒョンという名前のある夫、彼女を取り巻く家族や、職場の友人たちの心情を交え、立体的に浮かび上がってきたのだ。悲しいのは、誰も悪くないのに、変わらない社会構造が私たちを追い詰めているという現実。そして、変わらない原因は、そこから逃げ回ってきた私にも確実にあるという事実に、涙が止まらなかった。

「これを読んだ読者の方が声をあげて、この小説を完成させてくれました」

 これは、原作者のチョ・ナムジュが、来日時のトークショーで残した一節だ。そして、この映画もまた、小説を完成させたひとつの声となっている。その理由は、自身も子育てのために役者、そして演出家としてのキャリアを中断した「経断女」であるキム・ドヨン監督が、映画を通して、彼女の声をあげているからであろう。第56回百想芸術大賞で新人監督賞を受賞したキム・ドヨンは、スピーチでこう語っている。

「私は46歳の時に韓国芸術総合学校映画化の専門課程を志願しました。当時は何とも言えない恐怖に震えていました。その怖さと闘いながら学校に通いましたが、この瞬間の自分を誇りに思います。撮影の間、育児をしてくれた私の夫にも感謝したいです。そして何よりもこの映画を支えてくださったキム・ジヨンさんたちに感謝いたします」

 映画『82年生まれ、キム・ジヨン』の主人公は、原作者チョ・ナムジュであり、監督のキム・ドヨンであり、読者であり、スクリーンの前にいるいつかのあなたや私の分身だ。そして、徴兵制もなければ、年上を敬い、年下なら奢ってもらうのが普通という儒教の国ならではの「オッパ(お兄さん)文化」が強くない日本の男性たちが、この物語に触れることで、なかったことにされていた全てのキム・ジヨンたちの苦しみに、ただ気づいてくれたら……女性が呼吸がしやすく、安心できる場所が増えていくのではないだろうか。たとえ心が一度折れてしまっても、何歳であっても、私たちは自分の選択で自らの物語を完成することができるのだから。そうキム・ジヨンは教えてくれている。

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』
新宿ピカデリーほか全国ロードショー中
© 2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.
http://klockworx-asia.com/kimjiyoung1982/

小川知子

ライター

1982年、東京生まれ。上智大学比較文化学部卒業。雑誌を中心に、インタビュー、映画評の執筆、コラムの寄稿、翻訳など行う。共著に『みんなの恋愛映画100選』(オークラ出版)がある。
https://www.instagram.com/tomokes216
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